誰にでもきっと忘れられない映画があるはず。泣いた映画、笑った映画、感動した映画、想い出の映画、人生の大きな出会いとなった映画…。高田馬場駅を出て徒歩5分。クリーム色の外観に、レトロなポスターが並ぶ、その佇まい。今や街のシンボルともなった都内でも数少ない老舗の名画座が、あなたの人生を変えるかもしれない。
1951年に松竹の系列封切館としてオープン。1975年には旧作映画を主体に2本立てで上映する名画座となる。その後の改装を経てもなお昭和の面影を感じられるのは、今も昔も変わらぬ優しい佇まいのせいかもしれない。DVDなどの普及による需要の減少で、都内でも全国的にも数多くの名画座が幕を閉じる中、この早稲田松竹は今もなお街のシンボルとして親しまれ、多くの映画ファンを楽しませている。
入れ替え制を採らず、基本的に2本立て上映をコンセプトとする早稲田松竹。そして2本立てであっても入場料は一般1,300円、学生1,100円と非常に安く設定されている。これは、高田馬場・早稲田という街が学生街であり、街の空気を形作る学生たちに気軽に訪れてほしいという気持ちによるもの。また、会社や学校帰りでも気軽に鑑賞できるよう、その日最後の一本の入場料は、さらにリーズナブルな800円となっている。
入れ替え制を採らず、基本的に2本立て上映をコンセプトとする早稲田松竹。そして2本立てであっても入場料は一般1,300円、学生1,100円と非常に安く設定さ2002年4月1日、早稲田松竹は一時休館となる。約半世紀の間この街を活気づけたシンボルの休館に、どことなく街全体が暗く沈んだ。そんなとき手を差し伸べたのが他でもない、これまで長い時を共に歩んだ早稲田の街であり、数々の名画に心を打たれたファンの早稲田大学生であった。署名集めから始まり、マーケティング調査、新たな経営方法の提案までをも行った。この熱心な活動が実を結び、2002年12月21日早稲田松竹は復活する。それと共に、街も活気を取り戻した。
全国的に閉館が増えた名画座の中で、早稲田松竹は動員数を伸ばしている。それはここが、本当に面白く、本当に見たいものを上映しているからだろう。上映する映画はスタッフの話し合いで決まる。将来映画人を目指す者も含む筋金入りの映画ファンであるスタッフ達が、それぞれお勧め映画のレポートを持ち寄り、時にはスタッフ全員で鑑賞しながら、本当に面白い映画が選び抜かれ、スクリーンに映し出される。
また、ロビーに掲示板を設置し、上映希望映画のリクエストを受け付け、実際にそれを上映するというサービスも行っている。DVD化されていない古い映画のリクエストが多いというのも名画座ならでは。ちなみにリクエストはホームページでも受け付けている。
面白いものや、感動したものは、誰かと共有したいと思うのが人間である。早稲田松竹の映画は人と人を繋ぐコミュニケーションツールの役割も持っている。大 学の授業前に、会社の仕事帰りに立ち寄り、映画を楽しむ。昼休みに学食で、夕食時に食卓で、友達と、家族と、今日観た映画の話をする。そこで笑顔が生ま れ、感動が生まれる。そして一緒に話した友人と再び休日に映画鑑賞。ランチをしながら感想を語り合う。早稲田松竹はそんな風景を想い描きながら、今日もス クリーンと、その先の観客たちと真摯に向き合っている。
ある人との出会いがその後の自分の人生を変えるように、ある映画との出会いがその後の人生を変えることがある。菊田支配人も映画に人生を変えられたひとり である。元々警察官として働いていた菊田支配人は子育てを理由に休職する。7年前に再就職先としてたまたま出会ったこの早稲田松竹。そこで改めて映画の魅 力の虜となった。元々映画鑑賞は趣味であったが「自分が名画座の支配人になるとは」と不思議そうに語る。自分の人生に大きな影響を与えた“映画”というも の、そして早稲田松竹という映画館で、今は誰かの人生に影響を与え続けている。ちなみに支配人が最も感動した映画はスティーブン・ダルドリー監督のイギリ ス映画『リトルダンサー』だそうだ。
学生の常連客が就職によりこの街を離れた。時を経て、社会人として再びここを訪れたかつての学生は「まだここがあったんだ」と、感心し、安心する。初老の 常連客の男性はいつも家族とここを訪れ、夏にはアイスクリームを、冬には焼き芋をスタッフのために持ってくる。支配人は「ここがあり続けることが大事なん です」と語る。早稲田松竹はこれからもこの街にあり続け、この街と共に過ごし、この街の人々に新たな出会いと発見、そして多くの感動を与え続けるのだろ う。身近にありながらも、まだ訪れたことのない方がいたら、名画座だからと肩肘張らずにぜひ気軽にその魅力を感じて欲しい。 (取材・文:目崎雄太)