「高田馬場の歴史」〜地名の由来とその歴史〜
高田馬場は駅名や住居表示による町名の浸透によって、現在は「たかだのばば」という読み方が一般化しています。
もともとの名称の由来でもある、史跡の高田馬場(現在の西早稲田3丁目付近)は「たかたのばば」と“たかた”と濁点のない読みで呼ばれ、付近の通称地名も、昔はこのように呼ばれていました。しかし1910年(明治43年)に開設された高田馬場駅が「たかだのばば」と濁る発音で設置された影響から、徐々に両方の発音が混在するようになり、徐々に「たかだのばば」が一般的になっていったと言われています。
ちなみに落語の演目である『高田馬場(高田の馬場)』は「たかたのばば」が使われています。
高田馬場周辺の町名の由来
落語や史跡で有名な高田馬場があった場所として、山手線の高田馬場駅周辺をイメージする方が多いかと思いますが、駅周辺のその地名は山手線の駅名がつけられた後のこと。実際の史跡の「高田馬場」は、現在の穴八幡宮辺り(西早稲田3丁目)にありました。
1975 年の住居表示による町名変更の際、新宿区は駅周辺の町名をそれまでの諏訪町、戸塚町1~4丁目などから、駅名と同じ高田馬場に変更して1丁目~4丁目を割り振りました。その時に、史跡の高田馬場跡は西早稲田3丁目となったため、町名と史跡の場所が一致しない状態になったのです。
江戸文化を今に伝える「高田馬場流鏑馬(穴八幡宮流鏑馬神事)」
現在では学生街として有名な高田馬場ですが、昔は馬場があることから馬術の稽古にはげむ武士たちが住む街であった。その名残とも言えるのが、新宿区指定無形民俗文化財となっている「高田馬場流鏑馬」です。これは享保13(1728)年、徳川八代将軍吉宗が世嗣(よつぎ)の疱瘡平癒(ほうそうへいゆ)祈願のために現在の馬場下町の「穴八幡宮」に、流鏑馬を奉納したことが始まりとされています。現在では、毎年10月の第2月曜日(体育の日)に近くの都立戸山公園(箱根山地区)にて、高田馬場流鏑馬(穴八幡宮流鏑馬神事)が行われています。
赤穂浪士四十七士「堀部武庸」と「高田馬場の決闘」
西早稲田3丁目にある水稲荷神社の参道は、赤穂浪士四十七士のひとり堀部武庸が、助太刀に参戦した場所で高田馬場の決闘の舞台です。
高田馬場の決闘とは1694年3月6日に、江戸郊外戸塚村の高田馬場で起きた、伊予国西条藩松平頼純の家臣、菅野六郎左衛門らと村上庄左衛門らによる決闘で、堀部武庸が菅野六郎左衛門に助太刀して名を挙げたと言われる場所で歴史ファンが訪れる名所となっています。
高田富士祭り
日本人は古来より富士山を信仰する風習があります。江戸時代に入ると実際に富士山に登頂できるのは、一部の限られた人だけでした。
そこで町民は富士塚にて富士山の方角に向かって参拝しました。
水稲荷神社にある富士塚は高田富士と呼ばれ、普段は封鎖されていますが、夏の限られた時期の高田富士祭りのときに登頂することができます。
そんな歴史的にも魅力の溢れる高田馬場ですが、現在でも活気のある街です。
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